抗って抗って抗って

 良い天気。快晴。朝から、近所の商店のおばさんが、隣のお店のおじさんと開店準備途中の立ち話で「こんな日は働いたらダメよー」なんて言っていた。こういうシーンに出会えるから、この土地を気に入っているわけではないが、やり取りとしてなんとなく正しい気はする。少なくとも、楽しくなる。
 昨日だったか、一昨日だったか、駅の改札口で、おっさん二人が口論していた。口論というよりは、片方が片方を一方的に怒っている状態。よくある、「押された」「押していない」の問答である。
 たまに見かけるこの光景、モメているのはほぼ毎回、中年のサラリーマン風の男性だ。厚顔な中年女性も、タトゥーばりばりの兄ちゃんも、柳原可奈子が真似する総武線女子高生も、私立に通う小学生も、駅でモメたりしない。
 なぜサラリーマン風の中年男性だけが、怒りを持続させるほど「押された」と感じるのだろうか。
 混雑する車内で、押されるのは、理屈としてまったく間違っていない。降りる人がいて、自分がその人の導線上にいれば、普通は押される。それが嫌なら、脇に逸れるか、流れに乗って一旦降りるしかない。抗っても、無意味だ。
 こんなことは、一人で電車に乗れるほどの知性があれば、誰でもわかる。
 でも、サラリーマン風の中年男性はわからないのだ。きっと彼らは、どかない。
 いわゆる、団塊ジュニアの世代にあたるのだろうか。もうちょっと上か。その世代が一般的にどのような気質を持っているのか、についての知識がないのでなんともいえないが、他の世代に比べて、自意識が高いのかもしれない。「主体」や「個性」などをうたうメディアに侵された第一世代なのだろう。きっと。マジで。憶測だけれど。
 実感として経験として、僕の世代よりも、一つ上の世代のほうが、「個性」を気にする傾向にある。その上は、さらに気にする。でも、僕のおじいさんは、もう亡くなったけれど、今思い出してみて、「個性」なんて意識していなかったと思う。そんな単語を発した記憶もない。山型の曲線を描くイメージ。
 自意識が高くて、「自分が」押された、と思うから、あんなに怒れるのだ。僕らは普通、混雑した車内で圧力を感じても、それは「モノ」として押されてると、自動的に解釈できる。彼らはできない。
 だから、温かく見守ろうとは全然思わず、マジで迷惑だから、これからは一生電車に乗らず、自家用車かタクシーで移動してほしい。そんな財力がないのであれば、徒歩圏内で一生を終えてほしい。